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「帰天(きてん)」の意味とは?キリスト教における本来の考え方と使い方
2025年10月17日
「帰天(きてん)」という言葉を耳にしたことはありますか?ニュースの訃報や教会関係者の投稿などで見かけることがありますが、日常会話ではあまり使われない表現です。
しかし、その響きにはどこか穏やかで神聖な印象があり、悲しみの中にも希望を感じさせる言葉として多くの人の心に残ります。とはいえ、「帰天」とは実際にどのような意味を持ち、どのような場面で使われるのでしょうか。
本記事では、「帰天」という言葉の本来の意味やキリスト教での考え方、一般的な使われ方の違い、そして表現としての使い方の注意点を、わかりやすく解説します。葬儀に参列する予定がある方はもちろん、「言葉の背景を理解して正しく使いたい」という方にも役立つ内容です。
目次
「帰天」とはどういう意味?
「帰天」とは、文字通り「天に帰る」という意味を持つ言葉です。日本語としては古くから存在し、人が亡くなったことを「天へ帰る」と表現することで、死を「終わり」ではなく「新たな始まり」として捉える柔らかな言い回しとされています。特にキリスト教においては、「帰天」は重要な宗教的意味を含む言葉であり、「神のもとに魂が帰る」という信仰に根ざしています。
辞書的には「天に帰ること。キリスト教徒が亡くなること」と定義されています。つまり、「帰天」はキリスト教的な信仰を前提に使われる言葉であり、単なる「亡くなる」や「死去」とは異なります。「帰天」という言葉を使うことで、故人が神の愛に包まれ、永遠の命を得たことを意味するのです。
一方で、仏教では「成仏」「往生」、一般的には「永眠」「逝去」などの表現が使われます。同じ「死」を表す言葉でも、それぞれの宗教や文化の中で意味合いが異なり、「帰天」はあくまでキリスト教的な言葉として理解されるべきものです。このように、死の表現には宗教観や文化の背景が深く関わっており、「帰天」はその中でも特に信仰と希望を象徴する言葉といえます。

キリスト教における「帰天」の考え方
キリスト教では、人の死は「人生の終わり」ではなく、「神のもとに帰ること」と考えられています。聖書には「あなたの霊を御手にゆだねます」(ルカ23章46節)というイエス・キリストの言葉が記されており、この考え方はキリスト教における死生観の中心をなしています。つまり、人の命は神によって与えられ、死とはその命が再び神の御手に戻る瞬間であると理解されているのです。
この「永遠の命」への信仰こそが、「帰天」という表現の根底にあります。キリスト教における人間の存在は、単なる肉体ではなく「魂(スピリット)」を含む存在とされ、その魂は死後も滅びることなく、天におられる神のもとで生き続けると信じられています。そのため、「帰天」は“消滅”ではなく“帰還”を意味し、地上での使命を終えた人が創造主のもとへ帰る、安らぎと希望の旅立ちなのです。
カトリックにおける「帰天」
カトリックでは、死を「主のもとに召される」と表現し、神の慈しみに包まれて天に迎えられることを祈ります。「帰天」という言葉もこの考え方に深く結びついており、訃報や追悼ミサなどで頻繁に用いられます。故人の魂が神の愛のうちに安らかに迎え入れられることを願うものであり、「帰天」は単なる死去の報告ではなく、永遠の命への旅立ちを希望をもって伝える表現として受け継がれています。
プロテスタントにおける「帰天」
一方、プロテスタントでは「天に召される」「主に召される」という表現が一般的で、「帰天」ではなく「召天」という言葉を使用します。これは聖書の言葉「召し出される(to be called)」に由来し、神の呼びかけに応じて天に迎えられるという意味を持ちます。
また、キリスト教の教えでは「天国」は単なる場所ではなく、「神と共にある状態」を意味します。地上の苦しみや悲しみから解放され、神の愛と光の中で永遠に生きること——これが「帰天」に込められた希望です。そのため、葬儀においても「死を嘆く場」だけではなく、「神のもとでの安息を感謝する祈りの場」として受け止められています。
このように「帰天」は、キリスト教の信仰の中で「神との再会」や「永遠の安らぎ」を象徴する特別な言葉です。悲しみの只中にあっても、“故人は今も神の愛のうちに生きている”という確信を与えてくれる、温かく希望に満ちた表現なのです。

さまざまな「亡くなる」の表現とその違い
日本語には「亡くなる」ことを表す言葉が多くありますが、それぞれ宗教的背景や使う場面に違いがあります。
意味を理解しておくことで、訃報やお悔やみの言葉を伝える際に誤解を避け、相手の信仰や立場に配慮した表現を選ぶことができます。
| 言葉 | 意味・背景 | 主な使用場面 | 
|---|---|---|
| 帰天(きてん) | キリスト教における表現で、「魂が神のもとへ帰る」という信仰に基づく言葉。悲しみよりも希望や祈りの意味を含む。 | キリスト教の訃報・葬儀案内など | 
| 永眠(えいみん) | 宗教色を感じさせず、穏やかに眠るように亡くなったという意味。新聞のお悔やみ欄や一般的な訃報で多用される。 | 宗教を問わない一般的な場面 | 
| 逝去(せいきょ)/ご逝去 | 敬意を込めた「亡くなった」の丁寧語。目上の方や公的な発表に使われ、宗教に依存しない表現。 | ニュース・公式発表・弔電など | 
| 他界(たかい) | 「この世を去り、あの世へ行く」という意味。宗教的な色合いが少なく、一般会話や報道でも使われる。 | 日常的・報道的な文脈 | 
| 永逝(えいせい) | 文語的で格式の高い表現。「永遠の眠りにつく」という意味で、訃報文などで使われることが多い。 | 訃報・追悼文など | 
| 召天(しょうてん) | キリスト教の教義に由来し、「天に召される」「天に召す」ことを指す。特に神学的な文脈で使われることが多いが、日常的にはあまり使われない。 | 宗教的文章・説教・文学表現など | 
| 成仏(じょうぶつ) | 仏教の概念で、「悟りを開いて苦しみの輪廻から解脱する」ことを意味する。キリスト教では使わない。 | 仏式の葬儀・法要など | 
たとえば、カトリック信者の方には「〇〇様が帰天されました」と表現するのが適切です。一方で、宗派が不明な場合や一般的な案内では「ご逝去」「永眠」を使うのが無難です。どの言葉も故人への敬意を表すためのものであり、宗教的背景や受け取る側の立場に合わせた使い分けが大切です。
「帰天」という言葉の使い方
「帰天」は、キリスト教の信仰に基づいた、格式と敬意のある言葉です。特に訃報や教会関係のお知らせ文、追悼メッセージなどで使われます。ここでは、実際によく用いられる文例をいくつかご紹介します。
- ○○様が主のもとに召され、○月○日に帰天されました。
- ○○牧師が帰天されました。安息の日を覚えて祈りをささげます。
- ○○先生のご帰天を悼み、哀悼の意を表します。
- ○○様が神の召しにより、天の御国へと帰天されました。
- ○○兄(姉)が帰天され、主の御手のうちに安らかに憩われています。
- ○○氏のご帰天の報に接し、深い悲しみとともに心からの祈りをささげます。
- ○○様のご帰天を覚え、主の慰めと平安がご遺族の上にありますようお祈り申し上げます。
これらはいずれも、悲しみの中にも希望と祈りを込めた表現であり、単に「亡くなった」という事実を伝えるだけではなく、神のもとでの永遠の安息を願う気持ちが込められています。
一方で、相手がキリスト教信仰を持たない場合に「帰天」を使うと、宗教的な印象が強すぎて違和感を与えることがあります。その場合は、「ご逝去」「永眠」「他界」など、宗教色のない表現に言い換えるとよいでしょう。言葉の選び方は、故人やご遺族への敬意を示す大切な要素です。
また、カトリック教会では訃報に「主の平安のうちに帰天されました」と書かれることもあります。これは「神のもとで安らかに眠るように祈る」という意味を込めた、非常に丁寧で信仰に根ざした表現です。同様に、プロテスタントでは「天に召されました」「主に呼ばれました」「主の御許(みもと)に帰られました」といった表現が用いられることが多く、どれも神の導きと慰めを表しています。
宗派や地域によって細かな言い回しは異なりますが、いずれも「帰天」という言葉には、地上の別れを越えて神のもとで再会するという希望が込められています。言葉に祈りを込める気持ちが、最も大切な心遣いといえるでしょう。
キリスト教における死生観と「帰天」の祈り
キリスト教では、死は「別れ」ではなく「再会の始まり」と考えられています。聖書には「私はよみがえりであり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11章25節)と記されており、この言葉が多くの信者にとって「帰天」の希望を支える根拠となっています。人は死によって終わるのではなく、神の愛の中で新しい命に迎え入れられる――それがキリスト教の死生観の根幹です。
葬儀では、故人の魂が神のもとで永遠の安息を得るように祈りが捧げられます。カトリックでは「永遠の安息を彼に与えたまえ、主よ」と祈り、続けて「光の中で彼を憩わせたまえ」と願う言葉が唱えられます。プロテスタントでは「主の御手の中で憩えますように」「主の平安がありますように」といった祈りが多く、どちらの祈りも「地上の命を終えて神の懐に抱かれる」という「帰天」の信仰と深く結びついています。
また、聖歌や讃美歌には「帰天」の祈りが旋律として息づいています。「神ともにいまして」「主よみもとに近づかん」などの曲は、故人を神のもとへ送り出す象徴的な歌として多くの教会で歌われます。穏やかで荘厳な音色が悲しみを包み込み、参列者の心を静かに祈りへと導くのです。歌声を通して、死が終わりではなく「神との再会への一歩」であることを実感する人も少なくありません。
聖歌や讃美歌については、以下のページでもご紹介しています。あわせてご確認ください。
>>聖歌と讃美歌の違いとは?キリスト教葬儀で歌われる歌の意味と役割

「帰天」という言葉に込められた慰め
「帰天」という言葉は、死を恐れや悲しみの対象としてではなく、「神に抱かれる希望」として表す言葉です。単に「亡くなる」「終わる」といった表現よりも柔らかく、聞く人の心に静かな安らぎをもたらします。その響きには、命の終わりではなく、神の愛の中で永遠に生き続けるという信仰の確信が込められているのです。
遺族にとっても、「神のもとへ帰られた」という表現には深い慰めがあります。地上での別れを悲しみながらも、再び天の国で会えるという希望を信じられることが、心の支えとなります。そのため「帰天」という言葉は、悲しみと信仰を同時に包み込む、キリスト教ならではのやさしさを持つ言葉といえるでしょう。多くの人がこの言葉に触れたとき、「失われたのではなく、神の手の中にある」という安心を感じます。
近年では、宗教に関わらず「帰天」という言葉を選ぶ人も増えています。死を単なる終わりとせず、穏やかに見送りたいという思いから、この言葉の持つ静かな美しさに共感する人が多いのです。「天に帰る」「光のもとに帰る」といったイメージは、信仰を持たない人にとっても人間的な温かみを感じさせます。「帰天」は、死を超えて生きるという普遍的な希望を映す言葉として、今の時代にも静かに受け継がれているのです。
まとめ
「帰天(きてん)」とは、キリスト教における「魂が神のもとに帰る」ことを意味する言葉です。死を終わりではなく、神の愛に抱かれて新しい命へと歩み出す「帰還」としてとらえるこの考え方は、悲しみの中にも希望と祈りを見いだす信仰のあらわれです。
同じ「亡くなる」という出来事でも、「帰天」という言葉を選ぶことで、その人の生涯が神に導かれ、永遠の安らぎに包まれていることを伝えることができます。それは、残された人々にとっても「また天で会える」という慰めと希望を与えてくれる言葉です。
現代では、信仰の有無を問わず「帰天」という言葉のやさしさや温かみが見直されています。命の尊さ、愛のつながり、そして死を超えて続く希望を感じさせる言葉として、静かに人々の心に根づいているのです。
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